2012年8月23日

一人称を間違えると大変

※これは島研トークショーシリーズの第3回です。未読の方は第1回「島研で幼児化」、第2回「学びのキングマンション」から読んでいただけると幸いです。でも読まなくてもいいです。


<3>

将棋には序盤、中盤、終盤という大きな流れが3つある。
今、島が序盤の話題を振った。
「島研で序盤の研究って、したっけ?」


僕はあまり覚えがないと首をひねっている島を見て、隣の佐藤が何か言いたそうにしている。よく見れば森内も何か言いたそうだ。羽生はひとり天を見つめながら、思い出をたぐりよせるように静かに笑ってる。
佐藤が口を開いた。
「実は当時のタイトル戦で、研究局面がそのまま出た」
93年、中原誠名人と米長邦雄九段が対戦した51期名人戦第4局のことらしい。
佐藤の発言を受けた森内はものすごく鮮明に、自らの記憶でもって中原と米長の一局について語り出した。例えるならそれは、何月何日何時何分何秒、地球が何回周ったかといえば○○○回目でしたがそのとき僕は風邪で学校を休んでいたので羽生くんにノートを借りて5ページ書き写したところで母に呼ばれ食事を取りました、風邪なのにおにぎりを4つも食べて、中味は鮭とイクラと野沢菜とこんぶだった、鮭とイクラは親子丼的であった、そして20時33分より再びノートの書き写しを始めその作業には45分かかりました、羽生くんあのときはノートをありがとう的な正確さであった。


ものすごく細かすぎて何を言っているのか私には分からなかったので、メモを取るには取ったけれども我ながら解読不能であったので、知りたい人はきちんとした将棋ファンが書いたレポートを読んでもらいたい。


森内がこの正確無比な記憶を述べている間、佐藤は握った拳にぐっと力を入れつつ、そこに関しては俺にも言わせてくれ、俺にだってまだまだ言いたいことがあるんだという視線でもって森内を見ていた。佐藤の一人称が俺であるかどうかは知らないが、早く早くねえ僕にも言わせて森内くん僕も言いたいよ感を表現するのに、僕だと可愛すぎるのであえて俺を使った私の気持ちも分かってほしい。

つまり佐藤が言いたかったのは、自分の研究手が出たのは事実だが、その手を使ったから(米長が)勝ったわけではなくその後の指し方があったからこそで、私の手は関係ないというようなことだった。
佐藤が「私の手は関係ない」と言った辺りで、森内の笑顔がはじけた。ものすごくはじけた。その笑顔は、しぬほど甘くて美味しいイチゴを一気に頬張ったときの顔のようだった。

と、ここでクイズの2問目が投げられた。
ファッションにもこだわりがあった島、まだ10代の若き才能を率いつつ、こんなことを思っていた。「彼らには将棋を教わるのだから、私は人生を教えなければ」。そしてある日、メンバー総出で初めての買い物へ出かけた。行き先は表参道だ。
当時から島のファッション通は有名だったが、「島研」で買い物へ行くのには狙いがあった。将棋会館でどんな格好をしようが構わないが、この3人はやがて大きな世界に出てゆくだろう、そんなとき、よれたシャツでいてほしくはない――――島は羽生、森内、佐藤の母親に電話をし、買い物当日はある程度の金額を持たせてくれるよう頼んだ。


さてその金額はいくらだったか、というのが第2問目である。
3人は再びホワイトボードに向かい、羽生は10万、森内も10万、佐藤は15万と書いた。おそらく10万円で当たっていると羽生が見解を述べている間、森内は何度も何度も何度も、羽生の横顔を見ながら、一回につき7秒、計9回ぐらい見ながら、羽生が何か言うたびに、くしゃくしゃの笑顔を見せた。この時間帯から、森内の破顔は止まらなくなっていた。


森内があまりにも嬉しそうに笑うものだから、私は、このとき羽生が何を言っていたのか覚えていない。メモは取っていたけれど森内の笑顔回数をカウントするため書き記した「正」の字が大きすぎて、羽生の発言が読めなくなっていた。仮にこのメモを誰かに見られたら東京湾から身を投げコンブに巻かれて死にたくなるのでどうか見ないでほしい。


私が自らの身体に脳内コンブを巻きつけていたところ、森内に解答権が回ってきた。マイクを手にした森内は唐突に真顔になると「私は慎重なタイプなのでその場で購入に至ったかは覚えていないが、勉強にはなった」とほぼ棒読みで発言した。


もしもこのとき司会のお姉さんが、会場のお子さまに向けて、もりうちめいじんのすきなところを100個ずつ挙げてみましょう、では右側のお友達から順番にどうぞとかいう小技を挟んできたとしたら、お友達をはねのけ我こそは100万個ぐらいありますと言いかねなかったけれど、司会のお姉さんはそんな問いかけをしないのだった。


一方、慎重だから買ったかどうかは覚えていないという森内発言を受けた佐藤は、店員に言われるがまま買ったという自分のエピソードを始めた。佐藤が話している間も森内は、羽生の話を聞いていたときと同じく、話す佐藤を見ていた。そして何度も笑顔をこぼした。羽生は、やはり、天を見ていた。


私は思った。在りし日の出来事を4人で話すうち、森内の心は当時に還って行ったのかもしれない。いま壇上で森内は、羽生くんノート貸してくれてありがとう、佐藤くん15万じゃないよ10万だよところでバイオリン弾けるなんてすごいね、島先生またソースかつ丼ですか昼もソースかつ丼でしたよ羽生くんが嫌そうな顔してますよと思っているかもしれない。
そんな森内の心を推し量るように羽生はひとり天を見上げ、佐藤はうんうんとうなずき、島は授業参観に顔を見せたお父さんのごときたたずまいであったのかもしれない。


この後、のちに解散を迎える「島研」の、お別れ旅行に話題は進む。






<つづく>
※すべて個人の感想です。感じたことと事実とは一切関係ありません。